やすとみ歩はなぜ馬で選挙をするのか?

安冨歩(東京大学 東洋文化研究所 教授)

日本では、長い年月にわたって人類と共に暮らしてきた馬を、モータリゼーションによって徹底的に暮らしから排除してしまった。欧米先進国では、その数は限られているとはいえ、馬が暮らしと繋がっており、いろいろな場面で目にすることができる。
現代の都市は徹底的に記号化されている。先に人間の頭で記号操作が行われ、それに応じてコンクリートで固められおり、あらゆる場所が綿密に覆われている。それゆえ、我々は記号に取り囲まれて暮らしている。その状況が我々を苦しめており、さまざまな社会的問題の根源になっている。
馬は、私たちのこの問題を照らし出し、その状況を変革する力を持つ動物である。せめて欧米諸国くらいには、馬を生活に取り戻して良いのではなかろうか。その馬の力を活用する社会をもう一度志向してはどうだろうか。
このことを人々に知ってもらうために、私は馬を用いた選挙を構想した。

<馬に頼って社会を立て直そう>

馬は個体識別が苦手である。それゆえ誰が乗っても、ちゃんと乗れば乗せてくれるし、「馬泥棒」が簡単なのもそのためである。「飼い主」という認識がない。
とはいえ馬は高い知能と感受性を持っている。彼らは、自分の目の前の行為に反応する。それゆえ非常に、寛容であり、どんなに間違ったひどい対応をしたとしても、その直後に正しい対応をすれば、その前のことは関係なく、正しい対応を返してくれる。
これに対して人間は、個体識別に深く依存する動物である。我々の大脳がこんなにも発達した理由のひとつは、個体識別し、その履歴を記憶するためだといってよかろう。
しかし、人類は大きな社会を形成するようになった。都市においては個体識別は役に立たなくなっていく。東京の街を歩けば、知っている人と出会うことは、まずない。こうして個体識別が機能しなくなる。我々の社会の抱える問題の根源のひとつは、このことにある、と私は考えている。
私は『論語』の思想を研究しているが、その中核である「礼」という概念は、馬のコミュニケーションを参考にしているのではないか、と考えている。「礼」を、個体識別に依存するのではなく、人と人とが出会った場面における、適切なコミュニケーションの作法の交換を社会の基盤としよう、という思想、ある振る舞いに対して、適切な振る舞いで応え、その応答で社会を構成する、という考え方だと見ている。これは、馬の群の形成や、あるいは、馬と人との関係の形成のあり方と、よく似ている。『史記』によれば孔子の最初の仕事は牧場長であり、長じては多くの馬を飼って大切にしていたことが『論語』からも伺える。
これに対して法家は、事前に決定された規則で合理的に処理しようと提案した。現代社会は極端な法家アプローチを採用している、と見ることができる。そしてそれが、我々の社会を記号化し、コミュニケーション不全を引き起こしている、と私は見ている。
この状況からの離脱には、儒家的な礼の復活が有効であるが、残念ながら、我々現代人は、その身体的基盤を既に喪失しているように私には思われる。
この問題への対処の重要な方法が、馬との関係の回復だ、と私は考えている。馬という偉大な動物には、そのようなコミュニケーション空間の形成能力がある。
馬になぜ人間を癒す力があるのか。
私が感じることは、その大きさである。馬に乗せてもらうことは、子どものころに抱っこやおんぶをしてもらった経験と通じるものがある。そういう愛情の不足を補ってくれるのかもしれない。
また、鋭敏な知覚力を持っており、接する人間の心の状態を、本人の気づかないレベルで察知し、さまざまな形でフィードバックを返してくれる。これが、私たちの学びを引き出す大きな力を持っている。
また、馬は、牛や豚や羊や山羊とちがって、角も牙もない。鋭敏な耳や目で危険を察知して、強力な筋肉で逃げる、という方法で生き延びてきた動物である。それゆえ、積極的な攻撃性を基本的に持っていない。強大でありながら、攻撃性が弱い、ということが、強い力によって傷つけられた人間の怯えを取り除く効果があるのかもしれない。
馬とのコミュニケーションは、暴力も、命令も、お願いも、通用しない。強く大きな動物であるから、人間の暴力は簡単には通用しないし、馬を怯えさせると暴れてしまうので、逆効果である。言葉を理解しないので、命令しても何も通じない。言うまでもなくお願いをしても仕方がない。馬とのコミュニケーションは、全人格的な語り得ぬ力を用いるしかない。
現代社会において我々は、往々にして、暴力か、命令か、お願いか、を通じてコミュニケーションをしているつもりになっている。しかし、本当に必要なことは、人間同士においても、全人格的な語り得ぬ力なのである。この力を我々が失っていることが、現代社会がコミュニケーション不全に陥っている大きな原因である。
そして馬は、個体識別をあまりしないので、任意の人と平等に接することができる。犬は人間と共に暮らす代表的動物であるが、強く個体識別するので、その癒しの力の及ぶ範囲が限られる。
しかも、セラピーの仕事を担う動物は、往々にして強いストレスを受けて寿命が縮むことがあるのに対して、馬はそうではない。セラピーホースが、他の馬に比べて、何らかの健康上の悪影響を受けることはない。
馬に頼って、社会を立て直そう、と私は考えているのである。

<私は馬に救われた>

私がこのように考えるに至った背景には、個人的な経験がある。私は永年にわたって、非常に強い不安感に苛まれてきた。その苦悩の背景には、幼少期の親子関係があたっと考えているが、たとえ、その原因を認識しても、不安感を止めることはできなかった。
しかし、馬と接するようになり、私の心身の状態は大きく変化した。この過程で私は精神の不安が大きく改善し、身体的な健康も増進した。そればかりではなく、私は音楽活動をするようになり、自分の性自認に気づいて女性装するようになり、絵を描くようになった。子ども時代に自分自身に対して封印していた多くのことを、蘇らせることができたのである。
もちろん、その過程でカウンセリングを受けたこともあるが、人間が人間を癒やすのは、限界があると感じた。そしてセラピストや精神科医は、自殺率が非常に高い、と知って、なるほど、と納得したことがある。人間の苦悩を人間に手渡すことには、大きなリスクが伴っている。

<選挙でなぜ馬をするのか>

現在の日本の選挙の方法は暴力的である。街宣車で名前を連呼し、大音量のスピーカーで一方的にスローガンを叫ぶ、という行為は、多くの人が嫌っている。それは、本質的に一方向の情報発信であり、暴力性を帯びているからである。
私が馬を用いて選挙をするのは、この暴力性を打破するためである。馬のいる空間は、景色が一変し、たとえ都市においてさえ、記号性を打破し、世界の自由度を回復させる。馬は、私たちの命を生かしている神秘の力への気づきを与えてくれる。この生きる力の泉に人々が引き寄せられ、その神秘への敬意を取り戻す機会になってほしい、と考えている。
議会制政治において、政治家であるための条件は、選挙に勝つことである。それゆえ、政治の能力ではなく、選挙に勝つかどうか、がまず問われる。つまり、政治家の本質は、政治ではなく選挙である。それゆえ、どのような選挙をするか、は政治にとって決定的に重要である。選挙のやり方が変えることが、政治を変えることだ、と私は考える。
その変革を、人間が起こすことは、難しい。それゆえ私は、今回の選挙で、馬に頼ることにしたのである。

【補足:馬で選挙をすることは、馬の虐待になるのか?】

・馬は野生動物であるから、家畜化すべきではない?

野生動物としての馬は既に絶滅している。再野生化した馬もいるが、すべての馬は、家畜化を経ている。

・家畜動物の尊厳はどのように考えるべきか

家畜動物は人間が自分に貢献させるために改変して生み出した動物である。家畜動物は、経済的な価値の人間による利用が、動物の命を凌駕するという原則がある。しかし、経済的利益があるからといって、動物の命を無意味に奪うことは、命の尊厳を傷つけ、ひいては、私たち人間の尊厳をも踏みにじることになる。それゆえ、倫理的にやってはならないことになる。
しかし、この倫理的な線引きをどうするかについては、無数の議論がある。私はこれは、人の命を具体的に維持するために必要な事以外で、動物の命を奪うことは許されない、と考えるべきだ、と考える。これは、私たち人間が、他の命を奪わない限り生きていけない命である、という大前提の上に成り立っている。
少なくとも、私たち人間の命の維持とは無関係に、享楽やお金や社会的成功のために命を奪うのは、あまりにも酷い暴力であり、命の尊厳を傷つける事になる。

・ペットの是非

都市空間に生きる人間が、その精神的空虚を埋めるために、ペット動物に頼って生きる、ということは、上の原理から受け入れられることだと考える。しかし、ペットを買って無造作に捨てると言う行為は、命の尊厳を傷つけ、その人が尊厳が傷つけられていることを示す。
この状態は、ペット産業という経済構造の一部となっており、その構造を変える政策が必要であると考える。同時に、既に傷つけられてしまった尊厳を癒す活動が必要となる。この構造変革を志向しないのであれば、動物と人間の尊厳を守ることはできない。

・動物園や水族館は正当化されうるのか?

動物園や水族館は、野生動物を閉じ込めているのであれば、存在する意義はない。生き残る理由があるとすれば、絶滅に瀕する種の保存や、教育(=人間の生きる力の拡張)に寄与する、というところにのみ求められうる。

・競馬は馬を虐待しているか?

現代日本における、馬を取り巻く最大の問題は、日本中央競馬会(JRA)だと考える。
JRAは、馬を生産し育成し、走らせ、その行為をギャンブルという形で、人々に提供しいる産業である。馬という美しく走ることのできる命を利用した産業であることは、すばらしいことであり、その馬は確かに本当に美しい。その馬を生産し育成し、鍛え、能力の限界を目指し、馬を走らせるというい仕事に従事する人も、とても素晴らしい。
問題は、生産されたが馬が、無造作に殺されることを前提に、この産業が作られていることである。「経済動物だから、使えない馬は殺してもよい」というのがその正当化の言説である。走らなければ、殺す、というおそろしい原理で、競馬産業が支えられている、ということは、深刻な問題である。生産調整し、生まれてきた馬で競争する、という構造に変えねばならないが、これは、政治の力が必要である。

・選挙で馬を使うのは虐待か?

馬は野生動物ではなく、人と生きることによって生きる動物である。であるならば、人間が行うどんな活動であっても、享楽のために無造作に殺されるという行為以外であれば、それ自体が問題になる、ということは、あり得ない。もちろん、馬を酷使したり、餌を与えないという虐待は問題になりうる。
選挙で馬が活躍することは、馬の生命の維持や馬の精神的な苦痛を与える事にはならない。馬が人間と共に街を歩く、という行為が、馬に特別な苦痛を与える理由は考えられない。
選挙で馬を使う前例は、私の知る限り、以下である。

2012年12月の第46回衆議院議員選挙で、京都1区の平智之議員が馬車を使用。
2015年4月、2019年4月の神奈川県平塚市議会議員選挙で、江口友子議員が馬を引いて選挙する。
2018年7月の埼玉県東松山市長選挙で、安冨あゆみ候補が馬を使用。

これらの先例で、事故が起きたことはなく、また、馬の健康に何らの問題も起きていない。
今回は、これらの馬を使った選挙をサポートした経験豊富なグループに馬の運用を委託している。常時、2名のスタッフをつけ、馬の働く時間は実働4時間以内とし、かつ週に2日程度の休日を取り、健康管理に努めている。都市部を馬が歩くことによって、コンクリートによる熱問題や、馬の蹄の問題、排気ガスの問題や、人が多い場所でのストレス問題などは生じうる。
蹄や熱の問題に関しては、2名のスタッフが、管理しており、馬の体調が悪くなる兆候が出れば直ちに対策を打てる体制になっている。過去に、体調不良が起きたことはなく、今回の選挙でも何ら問題はない。
また、排ガスや人のストレス問題は、実際には解決する方法がないが、全く同じ条件で、人間が暮らしており、小さな子どもたちも暮らしている。当然、この環境は改善すべきだと考えているし、「子どもを守る」と言う今回の大きな目標からみても、馬にとって不愉快な環境で、子どもたちが暮らしていることに問題を感じている。そのことを人々に認識してもらうために、馬に頼っている、と言っても良い。
都市を歩く馬を見て、可哀想だと感じることは、人間がこの環境で暮らすことが悲惨な現実だと気付くための最初の一歩になるはずである。そして、馬が本当に可哀想だと感じるなら、私たち人間も本当に可哀想だし、即刻この環境を変えるためのアクションを起こすべきである。
もし、ここでアクションを起こさず、単に馬が可哀想と言っている人がいたら、それは、結局何も感じていないし、この暴力を容認していることになる。
そういった隠された事実を露呈させるためのの支援を、馬がしてくれている。馬が都市を歩くことによって、環境による暴力が改善するキッカケになれば、馬のためにも、人のために、大きな意義があるはずである。
これが、今回の選挙戦の一つの、目的である。