性的少数者もLGBTも、存在しない。性同一障害だって、存在しない。

安冨歩(東京大学 東洋文化研究所 教授)

今日、映画館ラピュタ阿佐ヶ谷にある劇場ザムザ阿佐ヶ谷で、新宿区議の依田花蓮さんとお話した。そのなかで、私の考えがまとまったので、ご報告する。

最初に、要旨をまとめておこう。

  • 存在するのは、差別という暴力である。
  • 被害者がその暴力を内在化すると、自傷あるいは他傷が生じる。
  • この暴力から生じる傷は実在する。
  • この傷から生じる痛みは実在する。
  • この傷がコミュニケーション的に治癒し得ないのであれば、医学的治療(ホルモン投与や性器変形手術)を施すしかない。
  • 社会的暴力によって発生した傷の治療には、当然、保険が適用されるべきである。

★私が参議院議員になれば、戸籍の性別変更の暴力的条項の改正を目指す。
★私が参議院議員になれば、この傷の治療の保険適用を目指す。


以前から私は、LGBTなど存在しない、と主張してきた。存在するのは、性自認や性的指向を口実にした差別だけだ、と考えてきたからだ。存在するのは、差別する人、だけである。彼らは、どんなことだって構わない、差別する適切な口実があれば、差別する。

しかし、差別の被害者が、そのことを真面目に受け取って自分たちをカテゴリー化し、

「自分は性的少数者だから差別されるのだ」

と思ってしまい、そのことを自分の「アイデンティティ」だと思ってしまうと、大変なことが起きる。なぜなら、それは白眼視する差別者の視線を実体化し、それを自分自身に内在化させてしまうからだ。そのとき、暴力そのものが、内在化される。

内在化された暴力が自らに向かうとき、それはひどい痛みとして作動する。
内在化された暴力が他人に向かうとき、それはひどい差別として作動する。

こうして暴力の連鎖が起きる。だから私は、被差別者は、差別者の口実に応じたカテゴリーを受け入れてはならない、と主張する。

ゲイもレズビアンも存在しない。同性愛を口実に、白眼視する愚か者がいるだけだ。
トランスジェンダー/セクシャルも存在しない。性自認を口実に、白眼視する愚か者がいるだけだ。

そして、性同一性障害などまったく存在しない。

そもそも、「性同一性障害」は誤訳だ。Gender Identity Disorder という英語の disorder は、もともと、order が秩序であるから、無秩序や混乱を意味する。医学用語ではたとえば、

disorder of autonomic function 自律神経機能(の)障害

というような用例があるが、これは、自律神経という身体の機構がちゃんと作動していない、という状態を表す。それゆえ「障害」と無理に訳せなくもない。

これに対して、Gender Identity Disorder の場合の Gender Identity は、身体の機構ではない。それは抽象的概念である。抽象的概念が「不調」になったりしない。それゆえこれを「障害」とは訳せない。この場合の Disorder は「無秩序、混乱」を意味する。男の身体なら、自分を男だと思うのが「秩序」であり、「女」の身体なら、自分を女だと思うのが「秩序」であって、逆になっていれば「無秩序、混乱」ということになる。

それに Identity というのは日本語に訳せない厄介な言葉である。「同一性』と訳しても、なんのことかわからない。これはおそらくキリスト教を背景にした宗教思想が背景にあって、日本語の世界観と合致していないのである。この場合の意味は、「性自認」とでも訳すほうが意味が通じると思う。

それゆえ、Gender Identity Disorder は「性自認の混乱」とでも訳すのが適当であろう。

さて、この disorder という言葉の背景には、男なら男、女なら女という性自認が「正しい」という前提がある。その前提が order =秩序、であり、そこからの逸脱が disorder =混乱 ということになるわけである。

しかし、そんなことを言われる筋合いはどこにもない。別に男の体に生まれてきたからと言って、自分が女だと思うのは、その人の勝手である。それが「混乱」だというのは、言いがかりに過ぎない。つまり、この言葉そのものが差別なのである。このような差別用語で、自分自身をカテゴリー化してはならない。それはひどい暴力の連鎖を引き起こす。

そして、gender reassignment surgery つまり「性別適合手術」という概念もまた欺瞞的である。なぜなら、reassignment は、assignment をやり直す、という意味であるが、この assignment というのは、生まれたときの医者による性別の判別を指す。その判別を手術でリセットしてやり直してやろう、というのがこの言葉の意味である。

しかし、医者にどうしてそんな権利があるのだろうか。そもそも、性器の形状を改変しても、別の性に移行できるわけではない。男性器を女性器に似せることはできるが、女性器の機能を持つわけではない。端的に言えば、子どもを生む力は、決して得られない。逆もまたそうである。それどころか、この手術を受ければ、生殖機能を失ってしまうのである。

結局、見た目だけの問題であるから、これは、性器変形手術でしかない。この変形を施せば、別の性になる、というのは、お話に過ぎない。

以上のように考えるので私は、性的少数者もLGBTも性同一障害も、そして性別適合手術も、存在しない、と考える。

では、これらのカテゴリーによる差別を受けている人は存在しないのでろうか。
とんでもない。
猛烈な差別がここに存在し、その暴力によって痛めつけられている膨大な数の人が存在する。
目に見える人ばかりではなく、自分の中にある性的指向や性自認に罪の意識を感じ、それを押し隠し、苦しみ、ついには自死する人は後を絶たない。

ここには、すさまじい暴力が蔓延している。
そして、膨大な数の人が、深刻な傷を受けている。
この傷は、実在する。
そして、この傷は、社会的暴力によって生み出された。

いわゆる「性同一性障害」に苦しみ、自分自身を傷つけてしまうほどに痛みにのたうちまわる人々は、実在する。
しかし、それでも、この症状は、社会的なものである。
もし無人島に生まれ育って、ひとりぼっちであれば、性同一性障害になる可能性などない。
その人が「男」であっても、自分が「男」であることを意識することがないからである。
しかし、脳溢血やガンは違う。ひとりぼっちでも、そういう病気にはなる。
それゆえ、「性同一性障害」という痛みは、社会性を前提としている。

これらの痛みは、深刻な傷害によるものである。
それゆえ、もしこの傷に苦しむ人々がいれば、その痛みを癒す必要がある。
その痛みは、外在的暴力によって形成されたものであるが、しかしそれを一旦、内在化してしまえば、自傷的に傷は拡大し、コミュニケーション的には、治癒不能になってしまうこともある。

そうなると、性ホルモンを打ったり、性器変形手術を施す必要も生じる。
これらの治療は、本質的な治癒ではないが、そうしないと生きられないのであれば、そうするべきである。
そしてその治療を受けるかどうかの決定権は、患者にあるべきだ。
もちろん、これらの治療には様々の副作用があるから、十分な知識提供は必要であるが、判断する権利は患者のものであるべきだ。
六ヶ月にもわたる精神科医のご機嫌取りを課す現在の制度は、間違っている。

それに、これらの傷は、社会的暴力によって発生したものであるから、当然、その治療には、保険が適用されるべきである。これらは「障害」ではなく、「傷害」なのである。病気ではなく、社会的暴力によって生じたケガなのだ。ケガの治療はできるだけ早くするべきだし、当然、保険が適用されるべきである。

最後に私がなぜ、こういう治療を受けなかったかを、簡単に述べておく。
私は女性装を始めたときに、こういう治療を受けるべきではないか、と深刻に考え、強烈にその欲望を感じたが、やがてその必要を感じなくなった。
私が、スカートを履いて街に出たときに、強烈な白眼視を受けた。
その白眼視が、その治療を受けたいと感じる理由であった。
しかし、やがて私は、誰もが私を白眼視するのではなく、一部の人がそうするに過ぎないことに気がついた。
問題は、私がスカートを履いていることにではなく、白眼視してしまう人にある。
そいつらが「変態」なのであって、私が「変態」なのではない。
このことに気づいて私は、自分の性自認について、それがなんの問題でもない、と感じるようになり、治療を受ける必要を感じなくなったのである。
そして、ノンホル・ノンオペのままで女性として暮らそうと、決意した。

もちろん、これは私の場合であって、傷の痛みのために生きられないのであれば、治療を受けるのは自由であるべきだ。そしてその決定権は医者にではなく、本人にあるべきだ。