内側から見た「れいわ新選組」

安冨歩(東京大学 東洋文化研究所 教授)

投票率が五割を切った参院選は、日本という国民国家の構造的劣化のひとつの表現であった。そのなかでその構造的危機からの離脱の方向性を示したのが、「れいわ新選組」という現象であった。

 この現象は、いったいなんなのか、これからどうなるか、に多くの人が関心を示しており、メディアにも、さまざまな論評が出始めている。私にはそれは概ね、的外れと思えるので、この現象に参加した私の見解を提示しておきたい。

 もちろん、これは私自身の見解であり、山本太郎氏の見解とも異なっているはずであり、ましてや、れいわ新選組を代表するものでは決してない。そもそも、この文書は、れいわ新選組関係者の誰にも見せずに、公開している。

 まず、私がなぜ今回の参院選の候補者となったのか、を記しておきたい。もともと私は、原発危機以降の山本太郎氏の行動に深い関心を示し、その政治行動に注目していたが、とはいえ、彼の支持者というわけでもなかった。三年前、2016年の参院選で、三宅洋平氏の「選挙フェス」が行われ、どういう経緯でそうなったのか覚えていないのだが、応援演説をすることになった。そのときに、山本太郎氏も来られて、ご挨拶して握手した覚えがあるが、会ったのはこれっきりだし、それ以外でコンタクトしたこともなかった。

 東松山市長選挙のときに、阿部ともこ議員に応援していただくことになり、ご挨拶がてら衆議院議員会館で行われた会合に参加したところ、山本太郎事務所の方とお会いして、選挙の応援に来てくださるかも、という話になり、「芸能活動みたいな選挙をやるので、芸能人として来てくださったら嬉しいなぁ」と申し上げたのだが、それはさすがに意味不明だったらしく、お越しにならなかった。どうせこういうことになるなら、政治家としてでいいから、来てもらえばよかった、と後悔している。

 さて、2019年の6月14日になって、突然、山本氏からメールが来て、「政策について意見を聞きたい」というお話であった。私は、東松山の家を引き払って、長野県の山奥に引っ越すことにしていて、その作業の最中であったが、氏が新しい政治集団を立ち上げることは知っていたので、それはぜひお会いしましょう、とお返事して、可能な日程をお送りした。

 そうしたら、16日になって、どうしても日程調整がつかない、というお返事があり、その電子メールに「実は」ということで、夏の選挙、候補者として擁立させてもらえないか、という趣旨のことが書かれていた。

 その段階では私は、そもそも参院選がいつあるか、さえ知らなかったので、それが7月4日になりそうだと聞いてびっくりするとともに、とりあえず話を聞かないとどうしようもないので、18日に時間を作って、山本氏とお会いした。

 そこで、私の基本的な考えをお話した。私は、現代という時代を、明治維新によって成立した日本の「国民国家」システムの緩慢な解体期として理解している。このシステムは、イギリスで生まれた資本制生産システムと、フランスで生まれた国民軍が中心となっており、その両者を統合しつつ機能させるために、学校教育、市民的自由、議会制民主主義などが成立した、と考えている。この国民国家の政治的指導原理はそれゆえ、「富国強兵」ということになる。この原理は「経済成長」というように言い換えられて今も生きており、安倍政権は「富国強兵」を露骨に再生しようとしている。

 しかしこのシステムは色々な意味で機能しなくなっており、現代の諸問題、たとえば累積する国債、中央銀行の膨張、年金・医療制度の破綻、学校の機能不全、政治不信と投票率の低下、経済の不振、少子化などなど、というものは、この国民国家システムそのものの衰退の表現として統一的に理解せねばならない。

 とはいえ、それらを人間の理性によって、合理的計画的に運営する、という方策は、二十世紀の社会主義という悲惨な実験によって、機能しないことが証明されてしまった。それゆえ、いったいどうしたらいいかわからない、というのが現在の状況だ、と見ている。

 これに対する私の回答は、「子どもを守る」である。アリの社会でも、ハチの社会でも、その目標というか、その運営の原理は、子どもを守る、ということであって、そうでなければ彼らはとっくに滅んでいたはずである。それは人類も同じであり、人類社会の目標にして原理は、子どもを守る、であったはずなのだ。そのことを忘れ、大人が、大人による、大人のための、大人の政治を行い、大人の間の利益配分を争っていることが、そもそもの間違いなのだ、と私は考えている。

 それゆえ、「富国強兵から、子どもを守る、へ」ということが、その回答となる。具体的な政策や制度の問題は、この原理の転換を行わない限り、さほど意味はない、と私は考えている。すべての子どもにお腹いっぱいご飯を食べさせ、安心して寝るところを用意し、親からも教師からも誰からも脅かされない状態を何としても作らねばならない。すべての話はその後にすべきである。

 それゆえ、私は、れいわ新選組が考えている政策にも、特に反対はしない。まぁ、政策なんかどっちでもいい、と思うからだ。とはいえ、全体の方向性として、安倍政権・自民党の目指す富国強兵路線には完全に反対であり、既存の政党よりも、れいわ新選組が、「子どもを守る」という方向性に近いと考える。

 だいたい、このようなことをお話しした。そのうえで、こんな考えの者を候補者として擁立していいのか、と山本氏に聞いたのである。氏はこの政治原理の転換の必要性に共鳴してくださった。少なくともそのように私には思えた。そして氏は、もし私が個々の政策に反対であれば、反対だと言ってくれて構わない、とまで仰った。

 また、なぜ一度しか会ったことのない私を擁立したい、と思ったのかを伺った。氏は、この選挙の候補者には、さまざまな問題の当事者に出てほしい、と考えており、私は異性装の当事者であるからだ、ということが第一の理由であった。そして更に、私の著作やインターネットの記事を見ていて、大いに参考にしている、というのが第二の理由であった。また、私の「子どもを守る」という理念を聞いて、ますます出てほしい、と考えている、とのことであった。

 それを聞いて私は、真剣に立候補を考えることにした。そして、更に、東松山市長選挙で行った、馬と音楽とを中心とした選挙運動の話をして、そういう選挙らしくない選挙をやるけど、それでもいいのか、と申し上げた。これについてはその後、具体的に、何がいくらくらい掛かって、何が公職選挙法に触れないでできるか、ということを事務方を含めて折衝した。更に、世界的ドキュメンタリー映画監督である原一男氏が、安冨がもう一度、選挙に出るなら、映画を撮りたい、とおっしゃっていたので、その件も確認した。

 また、私は会議が非常に苦手で、教授会ですら辛いのに、「国会」などという会議だけでできているところで働けるか、疑問であったので、そのことも聞いてみた。すると、24時間看護を必要とする方を擁立するつもりで(それは後に木村英子氏のことだとわかった)で、そういう方が働ける環境をれいわ新選組は用意するので、会議アレルギーも何とかする、とのことであった。

 こうしてすべての折衝が済んで、私が出馬することになったのは、6月25日であった。そして27日に記者会見することになった。選挙はもう目の前である。

 以上のやり取りから私は、山本太郎のれいわ新選組は、いわゆる「政党」ではない、と結論した。ここで言う「政党」というのは、その目的を「綱領」という形で明文化し、何らかの「政策」を掲げて選挙を戦い、議席を獲得して綱領の実現を目指す、という共通の目的を持った集団のことである。

 実のところ、この定義にきちんと当てはまる政党は、日本共産党、しかないであろう。ほかの政党は、「選挙に当選して議員になりたい」と思う人が集まって、票を得られる方法をいろいろ考え、それを綱領や政策として出し、「政党」のフリをしている集団に過ぎない。それでも、フリをしないといけないので、候補者が党の掲げる政策に反対だと公言するわけにはいかないし、綱領と関係のない政治理念を掲げることにも大きな問題が生じる。その上、往々にして選挙のやり方も、支持母体となる組織が主導権を握り、候補者はそれに従って運動することになりがちである。

 しかし、れいわ新選組は、「子どもを守る」という政治理念を勝手に私が掲げても構わないし、政策に反対だと言ってもいい、というわけである。しかも、選挙そのものも、私がどういう選挙をするか、勝手にしていい、ということであった。

 これは、もはや、政党の態を成していない。なぜそうなるのかというと、一つの理由は、4月1日から、山本太郎事務所の少人数のスタッフが、突貫工事で政党を作ってみせるという、そもそも無理なことをやってのけている、という事情がある。確認団体としての資格を獲得するために十人の候補者を揃えねばならず、そのための膨大な書類手続と資金集めとに忙殺されており、綱領とか政策とか選挙のやり方とかに、構っていらないのである。

 しかし私は、それ以上に、山本太郎氏の独自の組織運営理念が反映されている、と感じた。ものごとを、カチカチと固めていく、手続き重視の姿勢そのものが、暴力性を帯びる。なぜなら、たとえ実質的に意味があるものでも、この手続の都合に合わないものであれば、排除してしまうからだ。そうして、意味のあるものが排除され、無意味な書類だけが蓄積されていくのが、現代社会の病理であると、私は認識している。山本太郎氏もまた、その病理を心底嫌っているのだと、感じた。

 選挙が始まる前日くらいに、山本太郎氏から呼び出しがあった。それは、私が大学院生のときに、学生にハラスメントをした、というタレコミがどこかの雑誌にあって、誰かが動いている、という情報があり、その確認であった。私は、腹を抱えて笑った。というのも、そもそも大学院生は学生に対してなんの権限もないし、しかも私が院生をやっていた二年間は、必死に本と論文と資料とを読み、論文を書き、その上、厄介な恋愛遍歴にのたうち回っていたので、到底、学生にハラスメントしているような余裕がなかったからである。しかも30年以上も前のことだ。

 その話のあとに、公示日の第一声は、新宿ですか、と聴いたら、山本太郎氏は「まだ決まってないんです。話そこまで行ってないんですわ。ウチ、いっつもこんな感じで。」と言って笑った。私は「それは素晴らしいですね。『孫子』の兵法に、「無形」という概念があるんです。それは「何も決めていない」という状態のことで、何をどうするか決めていなければ、敵は、どんな優れた司令官でも、どんな手練のスパイでも、こちらの意図を読み取ることはできない、と孫子は言っています。無形が一番強いんです。」と言った。氏は「それはすごいなぁ。無形で行きますわ。」と言って、更に笑った。

 日本中世史の大家であった網野善彦は、日本社会における自由の根源を探し求め、「無縁」という概念に到達し、「無縁の原理」が人間社会には作動しているのだと主張した。私の考えでは「無縁の原理」とは、人間同士の関係、すなわち「縁」が腐れ縁になってしまったとき、その縁を断ち切って離れるのは当然だ、という人類普遍の感覚のことである。この無縁の原理が作動することにより、人間の自由が確保され、人々の関係の質的劣化を防ぐことができる。

 この無縁の原理は、「縁」が流動的であるなら見えにくくなり、それが固定化されるに従ってその作動も可視化され、「無縁所」といった具体的な空間を占めるようになる。その一例を網野は、そこに女性が駆け込むと婚姻関係が消滅する「縁切寺」などに求めている。

 そして更に、この無縁の原理を身に帯びた人間を「無縁者」と呼ぶ。無縁者とは、普通の人間には適用される規則が、適用されない者である。網野が挙げるのは、たとえば、天皇や上皇といった、極めて身分の高い人物に直接に交遊する白拍子、僧侶、歌人といった人々である。彼らは、無縁者であるがゆえに、高い身分の人と直接に口をきくという、有縁の人であれば決して許されないはずのことが許される。

 この無縁の原理は、近代国家では認められない。法律は如何なる場所であっても、誰であっても、等しく適用される建前である。無縁の原理はもはや、息を止められたかのように見える。しかし、それは無縁の原理が、「原理」である以上、ありえない。均一に加えられる抑圧に息苦しくなった人々は、無縁者の存在を求める。たとえば、「フーテンの寅さん」や「釣りバカ日誌」が多くのサラリーマンの心を捉えたのは、こういう映画の主人公が現代の「無縁者」だからである。あるいは、長期に渡って日本のテレビ業界のトップを占める女装家マツコ・デラックス氏は、その異形と相まって、無縁のパワーを発揮している。

 私は、この無縁の原理の信奉者である。その厳密な理論的背景については私の著作を見てほしい。この無縁の原理こそが、現代社会の抑圧を打ち破る力を我々に与える、と私は考える。山本太郎氏は、自らを「野良犬」「永田町のはぐれ者」といったように表現することがあるが、これは自らの無縁性を自覚しているからだと考える。

 さて、私が擁立を受諾した段階で候補者は、山本太郎氏と蓮池透氏だけであった。あと七人、どうするんだろうと思っていたが、なかなか埋まらず、ハラハラしたが、公示日の直前にバタバタと決まっていった。その一人ひとりが、まったく異なった色彩をもっており、そのラインナップに、私は舌を巻いた。これは明らかに「無縁者」の集まりであった。

 山本太郎氏は、その演説でいつも「生きづらさ」に触れ、「誰でも生きていればそれでいいんだ」と言い続けてきた。この現代の閉塞感を打ち破るには、無縁の原理が必要なのだ。そして、「れいわ新選組」は、この無縁の原理を体現しており、山本太郎氏や私を含めた候補者は、無縁者の集まりであった。私は、これが、れいわ新選組の躍進の基本的な原動力であった、と考えている。

れいわ新選組は、左派ポピュリスト政党、などではない。それはそもそも「政党」ではなく、「左派」でもなく、「ポピュリスト」でもない。れいわ新選組は、無縁者の集まりであり、その無縁のエネルギーが、ガチガチに固まって人間を閉塞させている有縁の世界に、風穴を開けつつある。人々の支持を集めているのは、その風穴から、空気が吹き込んでおり、息ができるようになったからだ、と私は考えている。